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2020.2.28

 

NewsPicks Publishing Newsletter vol.4


このニュースレターでは「10年かけて効いてくる、本を通じて得られるインサイト」を、リレー連載「スロー・ディスカッション」のかたちで毎号お届けしています。お時間に少し余裕のある時にお読みいただくのがベストです。
 



「板子一枚下は地獄」ということわざがあります。「板子」とは舟の床に用いられる板のことで、おだやかな海に浮かぶ舟でも、舟底の板を一枚外すだけであっけなく沈む。もとは船乗りたちの合言葉だったようですが、一見安寧なわれわれの日常が、いかにもろい基盤に支えられているかを的確に示したことわざでもあります。

第4回「スロー・ディスカッション」の寄稿者は、3月にNewsPicksパブリッシングからデビュー作『世界は贈与でできている――資本主義の「すきま」を埋める倫理学』を上梓する哲学者・近内悠太さん。ウィトゲンシュタイン哲学を専門としつつ、脳科学者の茂木健一郎氏に長年師事する、異色の論客です。

今回のお題は「大人の勉強」。子どもにとっての勉強とは、突き詰めれば「近代社会のメンバーとして適切にふるまえるようになる」ことが目的の一つです。では、大人にとっての勉強の意義とは? 

近内さんによればそれは「想像力を養う」ことにあります。そしてこの世界の安寧を支えている「板子」とは一体何であるのかを知り、ふたたび航海に乗り出すための武器です(後者については新刊で詳しく論じています)。近内さんがそのロールモデルとして挙げているSF作家・小松左京と経済学者・宇沢弘文のインサイトを、本稿で受け取っていただければうれしく思います。

***

2月20日発売の安宅和人氏の新著『シン・ニホン』、おかげさまで発売直後からAmazon総合1位を達成し、全国書店で好評をいただいています(重版のための紙不足という事態に直面し、「用紙の安定供給」という常識もまた「板子」だったのか、と天を仰ぎつつ)。「ちゃんとした人がちゃんと書いたちゃんとした本が、ちゃんと求められる」ことのありがたみを、チームで噛みしめています。引き続き応援していただけましたら幸いです。

NewsPicksパブリッシング副編集長
富川直泰

Contents

  1. スロー・ディスカッション#4 近内悠太「大人が勉強するとよい理由:宇沢弘文と小松左京の“想像力”」
  2. これから出る本


#4
大人が勉強するとよい理由:宇沢弘文と小松左京の“想像力”


近内悠太



なぜ僕らは勉強しなければならない/すべきなのでしょうか。

小中学生にとっての勉強であれば、答えはひとまず「近代的な個人としての判断力と常識を身につけるため」です。言い換えれば、ニュースを読むことができ、社会的な事象について自ら判断する能力を身につけることです。あるいは、(実際にうまくいっているかどうかは別として)国民国家という枠組みの中で、共同体のメンバーとして適切にふるまえる社会性を身につけるためでもあります。

 

倫理にもとづいた想像力が「オルタナティブ」を生む

では、僕ら「大人にとっての勉強」とは、一体何のためなのでしょうか。答えは「倫理にもとづいた想像力」を身につけるためです。ここでいう想像力とは、「実際には起こっていないが、あり得るかもしれない/あり得たかもしれない状況を思い描く力」のことです。「もし○○だったら」と想定し、その想定の下では一体何が起こり得るのかを考える能力のことです。なぜそのような想像力が必要かというと、そのような想像力こそが「オルタナティブ」を生み出すからです。

そもそもオルタナティブが必要とされるのはどういうときでしょうか。それは現状では問題が解決しないときです。現状のプランAでは対処できないとき、それとはまったく質の異なるプランBが求められるのです。もしその二つのプランが本質的に差のないものであったならば、わざわざ二つのプラン、二つのオプションを用意する必要などありません。だからプランBがプランBであるためには、それは「予想もつかないところ」から出てこなければならないのです。つまり、プランBというオルタナティブは今現在の思考法の延長には存在しないということです。

そして、そのようなオルタナティブを生み出す想像力は、「倫理」から生じます。倫理が想像力を起動し、その想像力がオルタナティブを生み出す。そんな倫理にもとづく想像力の例を2つご紹介しましょう。

 

小松左京の「夜が明けたら」

日本三大SF作家の1人である小松左京に「夜が明けたら」という短編があります。

こんなお話です(結末のネタバレを含みます。ご容赦ください)。ある寒い夜、地震が起こり、辺り一帯が停電するというシーンから物語は始まります。そしてそれにともなって、不可解な現象がいくつも発生します。固定電話が通じなくなり、ラジオやストーブや乾電池や自動車といったあらゆる電気系統がなぜかすべてショートしています。テレビもラジオも使えなくなった状況で、情報は一切得られない。停電からしばらくしても一向に電力が復旧しない。どうもこれは普通の地震や停電ではない。とはいえ、あと少しで夜明けの時刻だ。夜が明ければすべて解決するだろう――。

そんな不安な夜を過ごす中で、主人公はふと夜空を見上げて、ある事実に気づきます。星座が動いていなかったのです。地震発生から何時間も経っているのに、星々が地震発生時刻の位置のままだったのです。それは何を意味しているかというと、「地球の自転」の停止でした。地球の自転が止まってしまったのならば、もう二度と夜が明けることはない。停電、暗闇、寒さ、不安。それらは夜が明けさえすれば無くなるはずだ、とさっきまでは思っていた。「こうやって……待っているうちに……いずれ――夜が明けたら」。このセリフで物語は締められます。

この短編のうまさは、情報が遮断された状況の中で登場人物たちに事態の真相を気づかせるしかけとして「星座の移動の停止」を描いた点にあるのですが、さて、ここにはどのような想像力が働いているのでしょうか。それは、僕らにとってあまりにも自明である「地球の自転」「夜は必ず明ける」という「常識」がもし仮に破壊されたとしたら、人間はどれほど不気味で恐ろしい状況におちいるのか、というシミュレーションを行う力です。

 

なぜ小松は「滅亡」を描き続けたのか

小松左京は、そのような「常識」が破壊されたとき、人類がどのような苦境におちいり、どのような災厄を経験するのかをテーマとしたSF作品を何作も残しています。もっとも広く知られているのは『日本沈没』ですが、致死性ウイルスのパンデミックを描いた『復活の日』は、目下の新型コロナウイルスの感染拡大を予見していたかのような物語となっています(本作の発表は奇しくも1964年、前回の東京オリンピックの年です)。

なぜ小松はそのような作品群を書いたのか。その理由を彼は次のように語っています。

「それぞれの人間が「地球に発生した生物の一個体」という認識に立って知性を結集していかないかぎり、戦争も環境問題も貧困も飢餓も何一つ解決できないだろう」(『SF魂』、173頁)

「自ら生み出した文明によって翻弄される人類。その認識を持つことからしか、理性やモラルの回復は始まらないという思いが僕にはあった」(同書、69頁)


これは小松自身が自覚していたSF作家としての倫理観といえます。とりわけ『復活の日』には、この強烈なメッセージが込められています。同作の後半部に、大学で文明史を教えるスミルノフという大学教授が登場し、長大な独白を展開します。小松は自伝的著作『SF魂』の中で、スミルノフ教授は作者自身であると語っています(『復活の日』については、この3月に刊行される拙著『世界は贈与でできている』でも別の角度から論じていますので、そちらも参考にしていただけると幸いです)。
 

私たちの認識をアップデートする

ベストセラーになった『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』で、山口周は「自然法主義」という概念を紹介しています。Googleの社是である「邪悪にならない(Don’t Be Evil)」や、自社のステークホルダーを「患者や医師などの顧客」「社員」「地域社会」「株主」の順に優先順位をつけた上で、それぞれに対して自社が負うべき責任を明記したジョンソン・エンド・ジョンソンの「我が信条」のように、普遍的な「倫理」を行動原理とする態度のことです。これは、自然や人間の本性に照らして、それが「真・善・美」に適うものであるかどうかを重んじる態度です(山口はそのような真・善・美の感覚を総称して「美意識」と呼んでいます)。

「地球に発生した生物の一個体」という認識や「自ら生み出した文明によって翻弄される人類」という認識をそれぞれの人間が持たなければならないという小松左京の主張は、まさに彼の「真・善・美という美意識、倫理観にもとづく自己規範」となっています。

世界には戦争も環境問題も貧困も飢餓も存在しています。通常、それらを解決するためには、具体的な政策や経済支援などを行うというプランAを採用します。しかし小松はそうではなく、「人々の認識のアップデート」というプランBを提示しようとしたのです。そんなプランBというオルタナティブをこの社会に実装するために、小松はSF作品を何作も残したといえます。

 

経済学者・宇沢弘文と「自動車の社会的費用」

もう一人、自身の倫理観にもとづいた想像力の体現者がいます。経済学者の宇沢弘文です。宇沢は著書『自動車の社会的費用』の中で、それまでの手法とはまったく異なる形で「自動車の社会的費用」をはじき出しました。

自動車が大量生産されるようになって、さまざまな社会問題が発生しました。自動車事故による死者やけが人の発生、騒音や大気汚染といった公害、道路整備のための公的費用の発生などです。これらは自動車が社会に普及する前には存在しなかった問題群です。そういった社会的な損失があるわけですが、その損害費用や賠償費用などは自動車の「購入額」自体の中にはもちろん含まれていません。自動車の購入者が負担していないそのような損害の費用を「社会的費用」といいます。つまり、車1台を所有するためには、購入額に加えて、本来は一体いくら余分に支払わなければならないのかという費用のことです。

宇沢以前に、自動車の社会的費用の試算としては3つのものが知られていました。まず、当時の運輸省は、交通設備の整備、死者の損失額、警察の費用などを含めて、自動車1台あたりの年間の社会的費用は「7万円」であるとしていました。これに対して、自動車工業会は独自に計算を行い、1台あたり年間「6622円」という修正額を報告しました。その後、野村総合研究所は、運輸省の試算に大気汚染などの公害の費用も盛り込み、「17万8960円」としました。

 

宇沢が突きつけた「プランB」

ところが、宇沢は「1台あたり年間約200万円」というケタ違いな額を提示します。なぜこのような金額になったのか。宇沢だけがまったく異なる視座から人間という存在を眺めていたからです。

宇沢以外の3つの試算はいずれも、「失われたものを金銭的な価値に置き換える」という方法によって算出していました。たとえば「ホフマン方式」と呼ばれるものがあります。ある人が自動車事故で死亡した場合、その損失を「仮にその人が生きていたとしたら得たであろう所得」という基準にもとづき算出する方法のことです。しかし宇沢はこの方式の問題点を指摘します。

「このホフマン方式によるならば、もし仮に、所得を得る能力を現在ももたず、また将来もまったくもたないであろうと推定される人が交通事故にあって死亡しても、その被害額はゼロと評価されることになる。(…)このような計測方法が得られるのは、人間を一つの生産要素とみなすからである」(『自動車の社会的費用』、82-83頁)

また、宇沢はこう述べます。

「人命とか健康とかの損失は不可逆的なものであり、ひとたび失われた生命や健康は元通りに復元することができないものであって、ホフマン方式が妥当する前提はもともとみたされていないということができる」(同書、89頁)

失われたものを金銭的な価値に還元せずに、一体どうやって宇沢は自動車の社会的費用を算出したのか? 答えはこうです。「どのような都市環境や道路の構造であれば、そもそも事故が発生せず、人命がおびやかされずにすむか」という視点で計算したのです。つまり、市民の基本的権利を侵害しないような道路を作るにはどれほどのコストがかかるのか、という観点にもとづいて試算したのです。
 
たとえば仮に車道を両側4メートルずつ広げ、歩道と車道を並木によって分離するなど、道路構造の変更という投資を行った場合、どれくらいのコストが発生するか。このような視点から、宇沢は社会的費用を求めたのです。

宇沢の目には、都市の道路や自動車の走る光景が異常なものに映っていました。ちょうど日本の高度経済成長期にまたがる10年間ほどを海外で過ごし、日本に帰国したとき、東京の街を歩いてショックを受けたと綴っています。歩行者がたえず自動車に押しのけられながら、注意しながら歩かなければならないというのは異常な現象だと。

 

宇沢弘文のビジョン

僕らは、この国の都市環境や道路構造を当然のものとして受けとめています。が、宇沢の目にはそうは映らなかった。そして人の命をお金に換えることも許さなかった。宇沢の倫理観は、ホフマン方式という既存のシステムの中で常識的なものとされていた算出方法を認めなかった。そんな倫理観、つまり真・善・美の感覚(美意識、自然法)が、宇沢に「車1台あたり年間200万円」という額を導かせたのです。そして、実際の東京とはまったく異なる、自動車によって生命や健康が奪われない、市民の基本的な人権が守られる都市としての東京を想像したのです。そして、ホフマン方式にもとづくプランAに対して、そもそもホフマン方式を許容せずに想像力にもとづいて社会的費用を算出するというプランBを、宇沢は作り出したわけです。
 
自動車が当然のものとされているこの都市と社会の、オルタナティブとしてのプランB。宇沢は経済学者の倫理観と矜持から想像力を行使し、オルタナティブを生み出したのです。

そして、宇沢が示した、自動車によって市民の人権が毀損されない東京というのは、オルタナティブであると同時に、ひとつの「ビジョン」だと言えないでしょうか。短期的には実現不可能かもしれないけれど、いつか僕らがたどり着くべき場所。宇沢は自動車の社会的費用を計算することで、そんな都市のビジョンを提示したのです。

 

オルタナティブというビジョンへ

さて、本稿のお題は「大人の勉強」でした。なぜ小松左京と宇沢弘文を挙げたかというと、この2人が倫理にもとづく想像力の体現者としての「ロールモデル」だからです。オルタナティブを考案するために想像力を身につけろ、そして、その想像力を行使するための倫理観を自らの内側に用意せよ、といきなり言われても僕らは困ってしまいます。だとしたら、まずやるべきは、倫理観(美の感覚)のロールモデルを探すことです。そのロールモデルを参考にしながら、自身の倫理を少しずつ形作っていくことができるのです。

山口周は、真・善・美の感覚である美意識という自分のモノサシ(判断基準=倫理)を身につける方法の一つとして哲学を学ぶことを挙げており、また哲学を「知的反逆」と表現しています。小松左京が描き、宇沢弘文が論じたもの、それはまさに知的反逆です。小松は「自明の常識が破壊された世界」というシミュレーションを行い、宇沢はこの僕らの実際の都市構造とはまったく異なる都市の可能性を示した。既存のシステム(プランA)に対する反逆(プランB、オルタナティブ)だからこそ、想像力が必要なのです。小松と宇沢は、自身の倫理に従った人物の実例だったのです。

このように、知的反逆としての倫理観のロールモデルは、SFというエンタテインメントや経済学という学問の中にも存在しているのです。だとしたら、そんなロールモデルはさまざまな場所にあると言えます。そのような倫理を生きた人たちの作品という実例に触れ、自らが確固たる判断基準としての倫理を獲得する。だから、僕らは分野の異なるさまざまな知見に触れ、勉強しなければならないのです。自らの倫理を獲得し、オルタナティブというビジョンを作り出すために――。

 


近内悠太|Yuta Chikauchi

1985年神奈川県生まれ。教育者。哲学研究者。慶應義塾大学理工学部数理科学科卒業、日本大学大学院文学研究科修士課程修了。専門はウィトゲンシュタイン哲学。リベラルアーツを主軸にした総合型学習塾「知窓学舎」講師。教養と哲学を教育の現場から立ち上げ、学問分野を越境する「知のマッシュアップ」を実践している。2020年3月13日にデビュー著作『世界は贈与でできている――資本主義の「すきま」を埋める倫理学』をNewsPicksパブリッシングより刊行予定。

これから出る本

 

世界は贈与でできている――資本主義の「すきま」を埋める倫理学

近内悠太


「仕事のやりがい」「生きる意味」「大切な人とのつながり」。なぜ僕らは、狂おしいほどにこれらを追い求めるのか。この世界を基礎づける「お金で買えないもの=贈与の原理」とは何か。どうすれば「幸福」に生きられるのか。ビジネスパーソンから学生まで、見通しが立たない現代を生き抜くための、発見と知的興奮に満ちた「新しい哲学」の誕生。2020年最有望の哲学者、鮮烈なデビュー作。茂木健一郎氏推薦。

2020年3月13日 一般書店発売予定(2020年2月29日 アカデミア会員発送予定)


フルライフ――今日の仕事と10年後の将来と100年の人生をつなぐ戦略書(仮)

石川善樹


グッドライフは人それぞれ。しかし、フルライフ(充実した人生)は逆算できる! よりよく生きるためのライフハックとイノベーティブな結果を出すための仕事術は、最適につなげられる。人生100年時代が到来し、75歳頃まで一生懸命働くかもしれない私たちに、必要な「戦略」とはなんなのか。予防医学・行動科学・計算創造学からコンサル・事業開発まで縦横無尽に駆け巡り、「難しい問題を解くのが使命」と豪語する謎の学者・石川善樹の集大成!

2020年4月中旬 一般書店発売予定(2020年3月末 アカデミア会員配信予定) 

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